第1列王記18章20〜40節
「主こそ神です」
北イスラエル王国のアハブ王は、妻イゼベルと共にバアルという異教の神を広めた人物として知られる。国内でバアル礼拝が盛んになる一方で、主の預言者たちは迫害された。神は預言者エリヤをお立てになり、アハブに干ばつを予告する(17:1)。この干ばつは自然災害ではなく、神が生きておられるしるしとしてなされた。
エリヤの言葉の通り、干ばつになって3年目を迎えた(1)。神はアハブのもとにエリヤを遣わし、“バアルか主か、どちらがまことの神であるか”を明らかにしようとされた。カルメル山に集まったバアルの預言者450人に対し、主の預言者はエリヤただ一人であった。エリヤはそこに集められた民の代表者たちに、主に従うように決断を迫った(21)。しかし「民は一言も彼に答えなかった」。民はエリヤのこともアハブのことも恐れて決断できなかった。
バアルの預言者たちは朝から夕方まで、バアルを呼び求めた。踊りまわり、自分の身体を傷つけてバアルの名を叫び続けたが、何も起こらなかった。しかし、エリヤが主なる神を呼び求めたところ、天から主の火が降った。そして全焼のいけにえとたきぎとみぞの水をなめ尽くした。それを見た民は、ひれ伏して言った。「主こそ神です。主こそ神です。」(39)
「主こそ神です。」これは信仰の告白であった。民は火を通して主にお会いした。「主は生きておられる」というみことばが、自分の目の前で現実となったのを見たのである。民は、主こそまことの神であり、自分たちを救うお方であると告白した。
「主こそ神です」という告白は、悔い改めでもあった。バアル礼拝が盛んになり主の預言者が迫害される中、民は恐れに支配されていた。しかし主の火を見て、民は悔い改めつつ神の御前に引き出された。「主こそ神」という悔い改めと信仰の告白が神から与えられたものであり、自分の悟りによるのではないと知った。
礼拝の「招きのことば」である詩篇100篇に「知れ。主こそ神」とある(100:3)。礼拝では、みことばとの出会いが与えられる。その時、私たちは聖霊の働きにより、悔い改めつつ・新たな気持ちで「主こそ神です」と告白する者へと造り変えられる。