第2サムエル記14章21〜33節

「ダビデとアブシャロム」

 

 ダビデは家族間のトラブルに悩んだ。長男アムノンが三男アブシャロムの妹タマルに乱暴する事件が起きたのである。ダビデはアムノンに激怒するが、罪をいさめた形跡はない。その2年後、アブシャロムは復讐としてアムノンを殺害してしまう。ダビデはアムノンの死を悲しみ、アブシャロムは母の実家に逃げる。

 それから3年。ダビデはアブシャロムに何もできずにいた。兄を殺した罪を咎めることも、都に呼び寄せて安否を尋ねることもダビデにはできなかった。ダビデはアブシャロムを放置していたのではない。気になりながら、何もできないのである。そこにダビデの弱さがあった。ダビデの側近ヨアブが、巧みな芝居と演出で和解の場を創り、ダビデはアブシャロムを都に戻すことに同意するが、アブシャロムに謹慎を命じ会うことはなかった。

 しびれを切らしたのはアブシャロムであった。都に連れ戻されて2年が経過しても、ダビデと面会できずにいた。アブシャロムは兄を殺したことを反省していなかった。むしろ、ダビデに自分の正義を主張して徹底的に争うつもりだった。

 4年後、アブシャロムはクーデターを起こした。ダビデは都落ちする場面で、「主が良いと思うようにして」と神に命運を任せた(15:25,26)。ダビデはわが子のことになると不器用すぎる程の弱さを露呈したが、その弱さのまま神の前に出ていたのである。ダビデは自分の弱さを神の前に告白しつつ、神から与えられる結果を引き受けようとした。アブシャロムはクーデターに失敗し、殺害される。ダビデはあれほど敬遠していたアブシャロムに対し、「わが子アブシャロム」と大声で泣き叫んだ。アブシャロムの死はダビデに深い悲しみをもたらしたが、神の支えがあった。

 “頭ではわかっているけれども、どうしてもできない”ことがある。そんな弱さを、神の前に差し出すことができる。そこに神の備えがある。神は「私たちがまだ罪人であったとき」、主イエスによる赦しを備えてくださった(ローマ5:8)。神が備えてくださった豊かな赦しによって、私たちは弱さを認め、弱さと向き合い、神の助けを得て、前に進むことができる。