第2サムエル記21章1〜14節
「祈りに心を動かされる神」
ダビデの時代に飢饉が3年続いたことがあった。国家の土台を揺るがす深刻な事態であるが、こんな時、人は無力である。ダビデは神の前に出て救いを求めたところ、神は1つの罪を示された。「サウルとその一族に、血を流した罪がある。彼がギブオン人たちを殺したからだ。」(1) ダビデはこの罪を受けとめ、罪を償わせるために、サウルの親族7人をギブオン人に引き渡した。すると「神はこの国の祈りに心を動かされた。」(14)
ここでは、飢饉という災いの原因として“サウルの罪”が示された。しかし注意しなければならない。すべての災いが誰かの・何かの罪の結果として起こっているわけではないからである。主イエスでさえ、ガリラヤ湖で嵐に遭った。パウロは宣教旅行の際、幾度となく災いを経験している(Ⅱコリント11:23-27)。
私たちは災いや不幸を経験すると、それを誰かの・何かの罪と結びつけようとすることがある。少しでも不幸の正体を暴いて、楽になりたいと思うからであろう。しかし正体がわかったとしても、自分で自分を救えることは少ない。
ダビデは、神の御前に進み出て救いを求めた。神は救いの神であって、救いは神の御手にある。自分で自分を救おうとせず、神に救いを求めよう。たとえ自分に原因がある場合でも、神はあなたを救い、助け出してくださる。
この時、サウルのそばめリツパは2人の息子を失うことになった。自分に降り掛かった悲惨を払いのけるように、リツパは昼夜を問わず、遺体のそばにいて野鳥や獣を追い払った。母としての無念・思慕の情に多くの人々が心を打たれた。
リツパの行動は大きな影響を与えた。ダビデはサウルとヨナタンの遺骨を携えて来て、7人のものと共にサウルの父の墓に埋葬した。国中に“飢饉のために祈ろう”という心が与えられ、皆が祈りはじめた。こうして人々が神の御前に引き出されるようにして祈り始めると、「神はこの国の祈りに心を動かされた」のである(14)。災いや問題がある時、神の前にすすみ出よう。そして祈り始めると、そこに祈りの輪が生まれ、神の救いが与えられる。