テサロニケ人への手紙 第2 1章1〜12節
「恵みと平安を感謝して」
パウロはテサロニケの教会にテモテを遣わし、良い報告を得た。テサロニケの人々は、迫害が続く中でも「信仰が目に見えて成長し」「相互の愛が増し加わって」いると言う(3)。パウロは感謝した。ただし“テサロニケの兄弟姉妹よ、よく耐えて信じてくれてありがとう”と、人に感謝しているのではない。神に感謝しているのである。というのは、迫害の中でも信仰が守られているのは、父なる神と主イエスから「恵みと平安」が与えられていたからである(2)。
またパウロは、テサロニケの教会に神のさばきの日=「主の日」(2:2)について混乱があると知った。「主の日」、神は全人類をお裁きになり、主イエスを信じる者を「神の国」に迎え入れ、「主イエスの福音に従わない人々」に「永遠の滅びの刑罰」を与える(8,9)。テサロニケの人々は、「主の日」がすでに来たように言われるのを聞いて、落ち着きを失い、心を騒がせていた(2:2)。これに対してパウロは、テサロニケ教会を客観的に見て、「このこと(テサロニケ教会がよく忍耐して信じていること)」は、あなたがたが「神の国にふさわしい者」とされている「しるし」である、と語る(5)。
自分の姿を主観的に見るならば、皆、神のさばきを恐れるのではないか。自分の罪と愚かさを目の当たりにする時、“自分は大丈夫”とは思えないのではないか。しかしパウロは、客観的な視点で教会を見る。迫害に耐えて信仰を持ち続けることは、神の恵みと平安が与えられているということである。“神が恵みをくださっている”という客観的な事実に基づいて、“あなたがたは神の国にふさわしい者とされているから大丈夫だ”と語るのである。信仰には、このように神の恵みを見る客観的な視点が大切である。
主イエスが来られる時、主イエスは「信じたすべての者の感嘆の的となられる」(10)。その日、私たちは主イエスを見て驚くことになる。それがどんなに大きな喜びであり、恵みに圧倒されることになるか。パウロは大いなる期待を込めて、主の日を待ち望む。私たちも客観的な視点に立ち、神の恵みと平安が与えられていることを感謝して、パウロやテサロニケ教会と共に、この日を楽しみに待ち望むことができる。