ペテロの手紙 第二 2章1〜3節
「贖われた私たち」
ペテロの手紙第二は、偽教師の出現という危機に対応するために書かれた。偽教師は聖書を使いはするが、自説を語る人たちである。その教えは主を否定する「滅びをもたらす異端」であった(1)。教会では多くの者が「彼らの好色」に流され、「真理の道がそしりを受ける」という危機に直面していた(2)。教会はただちに、自分たちがいただいた救いを明確にする必要があった。
神の救いの御業とは、主イエス・キリストが私たちのために十字架で死なれたことである。神は、主イエスという代価を支払うことにより、私たちを神ご自身のものとしてくださった。こうして、神が私たちを「買い取って」くださることで(1)、私たちは神のもの・神の子とされ救われるのである。
この救いの事実が私たちに、どんなに深い慰めと平安を与えるだろうか。この世では、自分が何をしたか・どう生きたかということが、自分の評価や価値になる。“自分が何者であるか”ということが、周囲の声によって目まぐるしく変化することになる。しかし私たちは、神のものとされたことによって、この世における評価や価値に左右されない、確固たる自己をいただいた。それこそ、自分が神のものであるということであり、神の子とされている自分である。生きる上で、いつ・どんな事においても、いや死の間際にも、主イエスによって私たちは神のものとされている。
私たちは救いをいただいた者として、信仰にこれらの7つの特質が加えることが求められる(1:5〜7)。①徳、②知識、③自制、④忍耐、⑤敬虔、⑥兄弟愛、⑦愛である。
たとえば、このうちの「徳」を求めるとする。徳とは、相手のことを親身になって考え・行動することである。しかし、相手のために犠牲を払っても空振りに終わったり、感謝されないこともあるだろう。こうして、神に従うことによって新たな葛藤を抱えることになる。しかし私たちは、神に従う上での葛藤から逃げない。なぜなら主イエスご自身が、人として・その心と身体において、私たちを救うために犠牲を払い、葛藤してくださったからである。