第2列王記3章1〜27節

「御心を求める心を」

 

 北イスラエル王国のヨラム王は、南ユダ王国のヨシャパテ王とエドムの王の協力を得て、モアブと戦おうとしていた。ところが移動中、予定よりも多くの日数がかかったため、途中で飲み水がなくなってしまった。周囲は荒野であり、飲み水不足は死活問題であった。ヨラムはこれを見て「ああ主が、この3人の王を召されたのは、モアブの手に渡すためだったのだ」と言い出す(10)

 ヨラムは問題が起きた途端、“もう負けるに違いない”と諦めの言葉を口にした。もともとヨラムが言い出した戦いである。問題に向き合おうとしない態度は目に余る。しかも「主」を口にしている。普段のヨラムは主に従わず、金の子牛を礼拝していた(3)。ところが都合が悪いことには、「主」の名を使う。まるで、“問題が起きたのは主のせいだ”と言わんばかりである。

 ヨシャパテは冷静にこう言った。「ここには主のみこころを求めることのできる主の預言者はいないのですか。」(11)ヨシャパテは問題にきちんと取り組み、解決策を探している。このまま進軍するか、撤退するか。いずれであっても主の御心を求めた。主のもとに解決があり、最善の道が備えられていると信じたのである。

 王たちは預言者エリシャに会う。エリシャはヨシャパテの信仰を見て、主の御心を求める。すると主は「この谷には水が溢れる」(17)と、飲み水問題が解決することを約束される。翌朝、みことばの通りにエドムから水が流れ来た。主の救い御業が示された。

 しかし、飲み水問題は「主の目には小さなこと」であった(18)。主はもっと大きなことを計画しておられた。それはモアブに対する勝利であった。ヨシャパテは問題の解決を求めて主のもとに来たが、主は予想を超えた大きな御業を備えておられた。

 教会に来るようになったきっかけには、人それぞれにドラマがある。しかし教会との出会いを通して受け取った福音は、自分の予想を超えて豊かで慰めに満ちていたのではないか。神が私をさがして求めておられたこと、主イエスがともにいてくださる平安、神を知る喜びなど。「これは主の目には小さなことだ。」主は私たちに対して、私たちの予想を超える偉大な計画をもっておられる。