歴代誌第二 32章1〜8節、16〜23節
「主の前にひざまずき」
ヒゼキヤが南ユダ王国の王になった時、2つの困難にぶつかった。1つは当時、世界を支配しつつあったアッシリア帝国である。早急な対策が求められた。もう1つは、国内の乱れた信仰である。先代のアハブ王が持ち込んだバアル信仰により、民の生活は乱れ、国力が低下していた。ヒゼキヤは負の遺産を継ぐことになった。
ヒゼキヤは終始、主の前にひざまずくことから始めた。すぐに神殿を修復し、祭司・レビ人を元の働きに戻した。全国に過越の祭りを呼びかけ、全国民が主の前にひれ伏して礼拝した。主を礼拝する喜びは民衆に伝わり、国内の偶像礼拝を一掃することになった。民衆は収入の1/10をささげ、祭司・レビ人の生活を支えた。
しかし恐れていた事態が起きた。アッシリア軍が国内に侵入し、エルサレムを目指して進軍して来たのである。ヒゼキヤは主を信頼して、できるだけの対応を行った。城壁を修復し、やぐらを上げ、武器を増産させ、岩盤をくり抜いてエルサレム場内に水を引き込んだ(この水道はヒゼキヤの水道として知られる)。
できるだけのことをした上で、ヒゼキヤは主の前にひれ伏した。“主なる神は必ず救ってくださる”との信仰に立ち、部下たちを激励した。南ユダは主への信仰によって一つとなった。
アッシリア軍がエルサレムを取り囲んでも、ヒゼキヤは祈り続けた。預言者イザヤに祈りを依頼し、全国民が主に祈った。主は祈りをきいてくださった。アッシリア軍に御使いを遣わして一網打尽にし、奇跡的な勝利を与えてくださったのである。
困難を前にすると、心は揺れる。神に頼ろうとする自分と、失望して神から目をそむけそうになる自分がいる。しかし困難にぶつかり、心が揺れる時こそ、主の前にひざまずく。すべての救いはそこから始まる。
困難ばかりに注目すると、困難に飲み込まれる。神様ご自身を求め、神様に目を注ぐ者でありたい。困難な時に「祈って欲しい」と言えることは、神を信じる者の幸いである。祈ってもらうことで、自分の心配事を主に差し出すことができる。私たちの神は救い主であり、私たちの戦いを戦ってくださるお方である(8)。