コリント人への手紙第二 4章7〜18節

「宝が土の器に」

 

 「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。」(7)パウロは伝道者として生きた経験から、この恵みを証しした。パウロが福音を語ると、人々は主イエスを信じ、主イエスを喜ぶようになり、教会が誕生した。これは驚くべきことである。

 

 このような伝道の成果は、“パウロの力によること”ではなく、「イエスのいのちが私たちの身において明らかに示され」た結果であった(10)。パウロは、自分を通して現れた「イエスのいのち」、福音の「測り知れない力」を「宝」と語った。そして自分たちを「土の器」とした。

 

 「土の器」という言葉において、パウロは驚くべき恵みを証ししている。自分たちは「いつでもイエスの死をこの身に帯びている」(10)、また「イエスのために絶えず死に渡されている」(11)と繰り返す。これは“主イエスのために喜んで労苦し、死ぬことさえできる者とされた”という意味である。この背後には、主イエスが自分の代わりに死んでくださり、自分のすべてを赦して・受け入れてくださったという恵みがある。

 

 私たちは“私の言葉、私の時間、私の場所、私のもの、私の…”と、自分に終始してしまう。それが思い煩いの原因である。“私の罪、私の欠け、私の弱さ…”が目に留まる。しかし、そんな“私の○○のすべて”が、主イエスによってすでに赦されている。

 

 また「イエスの死」は“復活に向けての死”である。パウロは、復活に向けて生きる者とされたことを喜んでいる。復活の時、すべての労苦は無駄になることなく報いられ(14,17)、私は“主イエスによって整えられた私”とされる。今の私は「見えるもの」、復活する私は「見えないもの」であるが、今の私にとらわれることなく、「見えないものに目を留め」よう(18)。なぜなら、今の苦しみや労苦は、「イエスのいのち」によって「重い永遠の栄光をもたらす」(17)からである。

 

 私たちも「土の器」である。罪や欠けがあっても主イエスに赦され、労苦はあっても復活の確かな希望に生かされている。私たちも「この宝を土の器の中に入れている」。