イザヤ14章1〜23節

「神の約束を待ち望んで」

 

 イザヤはバビロン帝国の滅亡に関わる預言を語った。14:28「アハズ王が死んだ年」(BC716)を基準に考えると、約180年も先の出来事である。この頃のバビロンは、アッシリヤ帝国の支配下において抵抗を繰り返していたが、その度に鎮圧されていた。そのバビロンがアッシリヤを破ってオリエント世界の覇者となり、その栄光は全地に満ちるが、やがて滅亡する。人知を遥かに超えた預言であるが、歴史は神の告げた通りに動いていく。

 

 バビロン衰退の原因として、バビロンの高ぶりが指摘される。「私は天に上ろう。…密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう」と高慢になったために(13,14)、「主が悪者の杖と、支配者の笏を折られた」のである(5)。神の前に高ぶる者は、必ず砕かれて低くされる。

 

 イザヤの言葉が、彼の時代の人々にどのような意味を持ったのか、私にはわからない。しかしこのイザヤの言葉は、バビロン捕囚において捕らえ移される時にも、誰かの手によって大切にされ、バビロンへと持ち込まれたに違いない。そしてバビロンの地で礼拝をした人々は、この14章のイザヤの預言を読み、そして“神が100年以上も前に、自分たちのために救いを約束しておられた”ことを知ったのである。

 

 バビロン捕囚を経験している人々にとって、バビロン滅亡の知らせはどれくらいの実感を伴うものだったのかは、わからない。しかし少なくとも、“この苦しみには終わりが来る、神がこの苦しみを終わらせてくださる”というメッセージとして受け取られたのではないか。そして、神が苦しみを終わらせてくださる時を用意していてくださるなら、その時に向けていのちのバトンをつなげて行こう、今日という日を生きて行こうと思えたのではないか。

 

 神は今も、私たちのために帰るべき住まいを天に用意してくださり(ヨハネ14)、新しい天と地を与えてくださる(黙示録21)。神は私たちにも、苦しみが終わる時を備えていてくださる。私たちは救いの日が来ることを信じ待ち望みながら、今日という日もいのちをつなげていきたい。