イザヤ46章1〜4節

「あなたを背負う神」

(敬老礼拝)


 イスラエルの歴史は、神なしに語ることはできない。ヤコブ(イスラエル)の12人の子どもは、エジプトに寄留している間に巨大な民族になる。彼らはモーセを指導者としてエジプトを脱出し、カナンの土地を得る。ダビデによってイスラエル王国となるが、ソロモンの後に王国は分裂し、異教の神々を慕う王によって罪に罪を重ねる。神は罪を厳粛に裁かれ、ついに王国は滅亡に至りバビロン捕囚となる。神は、イスラエルの民のすべての歴史において、神は民との縁を切らないで、関わり続けて来られた。そういう歴史を視野に入れて、神は「わたしは背負う」と言われる。

 ここでは、偶像の神々との比較がなされている。それらの神々は、人々に背負われ、逃亡するときの荷物となり、敵国の戦利品となる。神は、私たちを招いて言われる。人々の世話になる神にではなく、「わたしに聞け」(3)と。神は私たちに、救いの手を差し伸べておられる。

 「あなたがたが年をとっても」「しらがになっても」とは、老年の人の姿というよりは、捕囚となった民の姿であり、神に背き続け・罪の代償を負わされた人の姿である。蒔いたものを刈り取らなければならないとは、何と厳しいことか。しかしその厳しい現実にいる者たちに、神は「なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って救い出そう」と言われる(4)。私たちの様々な現実に、神はいてくださる。神の救いの手は、今も伸ばされている。

 

「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って救い出そう。」(4節)