イザヤ57章14〜21節

「心砕かれて、へりくだった人」

 

 「しかし悪者どもは、荒れ狂う海のようだ。」(20)「悪者」とは悪巧みをする者ではない。神様が救いに招いておられるのに、それを無視する者のことである。荒れ狂う海が濁った水を吐き出すように、悪者は人を傷つける言葉を語る。

 人の心は、水を入れたコップの底に砂が沈んでいるようなものだと言われる。平静な時はきれいな水のように見えるが、心が乱れると砂は巻き上がり濁った水になる。この“心の中の砂”とは何か。それは聖書の語る罪であり、神様に背く頑なな自我である。神様に背く自我は、いつも自分ファースト(自己最優先・自己中心)に物事を考える傾向を持つ。そこから人を傷つける言葉が発せられてしまう。

 悲しいことに、人は自分で“心の中の砂”を取り除くことができない。人間関係でどんなに後悔しても反省しても、その砂は消えない。ここに、罪に支配された人間の悲惨がある。

 しかし神様は「わたしはくちびるの実を創造した者」と言われる(19)。“くちびるの実を創造する”とは、その人の言葉が新しくなることである。神様は「平安あれ」を命じて、その人に“神様の愛を受け入れ・神様に従う心”を与えてくださる。そして神様との関係が平和になると、その人の心が変わり、その人の言葉が変わる。言葉が変われば人間関係が変わる。神様の恵みによって、人の歩みは美しく彩られる。

 神様は「心砕かれて、へりくだった人とともに住む」と言われる。“へりくだる”とは“砕かれる”と同義であり、自分に絶望した人のことである。神様は、自分に絶望する者を放っておかれない。私たちを招いて造り替え、神様の愛に生きるようにしてくださる。そのような神様の恵みの故に、私たちは安心して絶望して良いのである。 

 

「『わたしはくちびるの実を創造した者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼をいやそう』と主は仰せられる。」(19