イザヤ63章1〜10節

「救い主を待ち望む」

 

 神の民イスラエルは、苦しみと悩みの中にいた。彼らは「主が私たちに報いてくださったすべての事」を思い起こし、神の救いを待ち望んでいた。私たちの神は、神の正義によって善悪をさばくお方であって、私たちの涙に報いてくださる。

 

 神は、イスラエルを「わたしの民」「偽りのない子」と呼び(8)、親が我が子を心配しながら見守るように、「彼らが苦しむ時には、いつも主も苦し」んでくださる(9)。そして「その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」(9) 時に背負い、時に抱く。神はイスラエルを我が子のように大切に守り、導いて来られた。

 

 神が抱き・背負ってくださるとは、具体的にはどういうことなのか。それは、“神が私にかかわるすべてについてのことを、責任をもって引き受けてくださる”ということである。詩篇の作者は「あなたの重荷を主にゆだねよ。主はあなたのことを心配してくださる」と語り(詩篇55:22)、主イエスは「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい」と招かれた(マタイ11:28)。私の必要も、私の叫びや嘆きも、私の失敗や罪さえも、神はすべてを引き受けてくださる。物事の渦中にいる時、私は無我夢中で日々を過ごしているが、神が私を背負うようにして、その苦しみの期間を乗り越えさせてくださる。

 

 神の民イスラエルは神の救いを待ち望みつつ、これまで幾度となく自分たちが神に逆らい、主を悲しませて来たことを自覚していた(10)。イザヤは祈って言った。「あなたのしもべたち、あなたのゆずりの地の部族のために、どうかお帰りください」(17)。

 

 「どうかお帰りください」とは、“主よ、来てください”という祈りである。神が恵みを与え、あわれんでくださらなければ、自分たちに救いはない。だから“主よ、来てください”と、主の救いにすがり、主を待ち望んでいる。

 

 私たちも自分たちが置かれている状況のために祈りたい。私の家庭に、私の人間関係に、私の肉体の悩みに、“主よ、来てください”と。この地上に、“主よ、早く来てください”と。