イザヤ64章1〜12節

「神の民の嘆き」

 

 イザヤの晩年、マナセ王は盛んに偶像礼拝を行い、正しい者たちの血を流した。その罪深さに比例して破滅の預言は現実味を増す。「エルサレムは荒れ果てています。」(10)

 同時に、人々が神の怒りに触れ罪の裁きに苦悩する姿も語られる。その時、人々は「あなたが天を裂いて降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう」(1)と出エジプトの御業を思い起こし、天からの奇跡的な救出を恋い焦がれるようになるだろうと預言される(4)

 自分では這い上がれない罪の深みに落ち込んだ者は、祈ることもできなくなる。「あなたの御名を呼ぶ者もなく、奮い立って、あなたにすがる者もいません。」(7) これは自分の咎のために神に罰せられ、砕かれた者の姿である。

 しかし8節で調子がガラリと変わる。絶望の中でうつむいていた者が、「しかし、主よ」と神様に目を向けようとする。聖霊が働いてくださったのである。パウロは「キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理」によって、自分が「罪と死の原理」から解放されていることを知った(ロマ8:2)。宗教改革者ルターは、自分の罪に打ちのめされていたが、みことばの光によって、信仰によって義とされる恵みを見出した。「今、あなたは私たちの父です。」(8)という告白の背後には、聖霊なる神様の働きがあった。

 実に私たちは「それでも私たちは救われるでしょうか」(5)と嘆くことしかできない、救われる要素ゼロの空虚な存在である。しかし、父なる神は私たちが救われるのに必要なすべてのことを成し遂げてくださった。私が主イエスを信じるという、“信じる心=信心”が私を救うのではない。聖霊が働き・救い主イエスを“信じて仰ぐこと=信仰”によって救われるのである。今、空虚な者でも救われる道が拓かれている。神様はあなたを救いの恵みに招いておられる。

 

「しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。」(8