エゼキエル書10章1〜8節

「神の聖霊の宮」

 

 神はエゼキエルに幻を見せた。そこにはケルビムがいた。ケルビムとは、御使いのような天的な存在である。ケルビムがいることから、そこが神の御前の光景であるとわかる。

 

 ケルビムの間には燃える炭火があった。これはイスラエルの罪に対する罰として、神が備えておられたものであった。神は、「亜麻布を着た人」(御使い)に「ケルビムの間の炭火を取り、エルサレムの上に撒き散らせ」と命じると、御使いは両手いっぱいの炭火をケルビムから受け取り、そこから出て行った。エゼキエルは、エルサレムに神の裁きが下される時が近いことを知った。

 

 この幻で注目すべきことは、エルサレムからケルビムが飛び立ち、ケルビムに続いて「主の栄光が神殿の敷居から出て行って」しまったことである(18)。これはイスラエルの民から神が離れ、“神不在の状況”になったことを意味する。

 

 聖書が与える救いは、“神が共におられる”ということである。主イエスは「わたしは決してあなたを離れず、またあなたを捨てない」と約束してくださった(ヘブル13:5)。主が私と共にいてくださることは、私たちにとって大きな慰めであり支えである。

 

 この約束が与えられているのは、主イエス・キリストの十字架のおかげである。主イエスは「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と言って十字架で死なれた。これは、主イエスが私たちの罪を引き取って罪人になり、私たちに代わって神に捨てられたことを意味する。主イエスが、私の罪の罰を受けて下さった。だから私たちは“主が共にいてくださる”という約束を、疑うことなく・心から確信して信じることができる。

 

 使徒パウロは「あなたがたのからだは、…神から受けた聖霊の宮」であるから「自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい」と語った(Ⅰコリント6:19,20)。私たちには確かな救いが約束されているが、私自身がまるで“神不在”であるかのように振る舞ってしまうことがある。私たちは“救われた私を生きる”ことにおいて、様々な戦いや葛藤、弱さを痛感している。しかし主が共にいてくださるのだから、自分を諦めないで主に信頼しよう。