エゼキエル書17章1〜10節

「主の御手から受け取る」

 

 神はたとえ話によって、エゼキエルに御心を明らかにされた。一羽の大鷲(バビロン帝国)が杉のこずえ(ユダの王エホヤキン)を取って商人の町に置き(バビロンに捕え移し)、さらに大鷲はぶどうの種(ゼデキヤ王)を取って肥えた土地に植えた(イスラエルの王とした)という話である。

 

 このたとえ話には続きがある。ぶどうの種はその枝と根を大鷲の方に伸ばしていたが(イスラエルがバビロンに従順であったが)、別の大鷲(エジプト)が現れると、ぶどうの木は別の大鷲の方に枝と根を伸ばしはじめた(イスラエルはエジプトに軍事的な援助を求めてバビロンに反逆した)というのである。

 

 一見、国の生き残りをかけた駆け引きのように見えるが、この背後には、神の民に対する神の御心があった。神はバビロンによる支配によってイスラエルを低くし、神に従うことを学ぶ道を備えられた。ところがイスラエルは神の御心を悟らず、この世の力(エジプトの軍事力)を求める道に進んでしまった。もしイスラエルが神の御心を悟り、バビロンに支配されるという試練を通して主に従うことを学ぼうとしていたら、イスラエルのその後の歴史は変わっていたかもしれない。

 

 私たちは様々な重荷や課題に直面する。やりたくない仕事、様々なお世話、重たい責任の他、体調面の試み、トラブルなどである。もし、そういう重荷や課題はただ単に私たちを消耗させるものではなく、その先に何らかの神の恵みが備えられていると信じる。神は私たちを、ただ苦しめ悩まそうとは思っておられない(哀歌3:33)。神の備えた恵みがあるならば、私たちが懸命に取り組んでいることやじっと忍耐していることにも意味があると言える。

その重荷が主の御手によって与えられるものであるならば、それ

 

 私たちは何かを頼っては空振りに終わったり、別のものにすがっては自分の立場を失ったりする。その重荷や課題を“主の御手から出たこと”として受け取り、“主にあって、今の取り組みや忍耐が無駄にならない”と信じよう。そして大胆に主に頼り、主に従おう。主は私たちを支え、豊かに助けてくださる。