エゼキエル書24章15〜27節

「慰めを備える神」

 

 ある日、神はエゼキエルに言われた。「人の子よ。わたしは一打ちで、あなたの愛する者を取り去る。」(16)エゼキエルの孤独な預言者人生を思う時に、妻という存在がどんなに彼の喜びであり慰めであったか、想像に難くない。当然のことながら、エゼキエルは悲しみに打ち倒された。しかし、その悲しみを表に出そうとはしなかった。前もって、神に命じられていたからである。エゼキエルは、通常の喪に服する振る舞いを一切しなかった。

 

 イスラエルの民は、エゼキエルの妻が召されたこととエゼキエルの様子がおかしいことを聞いて「あなたがしていることは、私たちにとってどんな意味があるのか」と尋ねた(19)。神はエゼキエルに「わたしの聖所を汚す」と御心を告げられた(21)。それはエルサレム神殿が壊されることの予告であり、最後の望みが絶たれることを意味した。それが実現する時、「エゼキエルはあなたがたのしるしとなり」、イスラエルの民はエゼキエルのように、悲しみを表すことさえできなくなるだろう、と神は言われた(24)

 

 約3年後、エゼキエルたちのもとにバビロン捕囚となった者たちがやってきた時(33:21,22)、イスラエルの民は絶望のあまり、悲しみを表そうとしなかった。これは3年前にエゼキエルがしたのと同じ行為であり、この時になってはじめて、エゼキエルの行動の意味が明らかになった。神がエゼキエルに悲しみを表すことを禁じたのは、エルサレム滅亡という絶望を予告すると共に、神ご自身が悲しんでおられることを示すためであった。神はイスラエルの罪を聖めるためエルサレムを徹底的に裁かれた。イスラエルの民は神に見捨てられたと受け止めたであろう。しかし神は、イスラエルが打ち砕かれる姿を思って悲しみ嘆くお方であり、その悲しみと憂いをエゼキエルによって3年も前から表しておられた。そして、神が3年も前からイスラエルのために悲しんでおられたことは、“神が自分たち見捨てていない”という慰めとなった。

 

 神は私たちにも慰めを備えてくださるお方である。「恐れないで、ただ信じていなさい」という約束を握り、主と共に歩み、主がなさることを見続ける者でありたい。