エゼキエル書48章30〜35節

「主はここにおられる」

 

 エゼキエルの状況は過酷だった。バビロンに来て25年が経過し、故郷エルサレムは破壊し尽くされた。目に見える希望は何もなく、将来に光はなかった。そのような中で神様は、エゼキエルに新しいイスラエルの町の姿を示された。「主はここにおられる」と呼ばれる町が、神様によって建てられる。

 神様はみことばの通りをなさった。バビロン帝国滅亡後、ペルシア帝国の王キュロスによってエルサレム帰還の許可が出され、荒れ地のエルサレムに城壁と神殿が再建された。

 しかし、これは“人々が願ったとおり”ではなかった。新しい神殿は以前より小さなものだった。前の神殿を知る者たちは、その貧しさを見て泣いた。エゼキエル自身も、みことばの成就を見ることなくバビロンで天に召された。

 “自分の願ったとおり”なら「みことばの通り」「主がともにいてくださった」ことなのか。“願ったのと違う”なら「神様は何もしてくれなかった」「信じても意味がない」ことなのか。私たちは「主はここにおられる」という約束を、自分の都合のいいように解釈してしまう傾向がある。神様のご計画は、私たちの予想や期待をはるかに超えた大きなものであることを思い起こそう。逆境のように見えても、そこに「主はここにおられる」。神様の恵みは見えないようでも、隠れたところに確かに備えられている。

 「主がここにおられる」のは、自分の心がけや信仰の状態によって起こることではない。神様ご自身が、聖霊の絆で私たちを結びつけておられるからである。私たちは波に弄ばれる小舟のように、小さなことで揺れ動く。しかし聖霊のロープによって、不動のお方である神様に結び付けられている。神を信じるとは、私が揺れ動かない人になることではない。揺れ動く私が、神に結びつけられていることである。

 

「その日からこの町の名は、『主はここにおられる』と呼ばれる。」(35