エレミヤ書11章1〜14節

「この契約のことばを聞け」

 

 イスラエルの民は、長年にわたって偶像の神々を求める罪を犯して来た。エレミヤの時代には、神殿でまことの神を礼拝するのと並行してバアルという神々を崇拝した。問題は、イスラエルの民に罪意識がなかったことである。彼らはバアル礼拝によって神の怒りを引き起こしていることに気付かず、むしろエルサレムが神の都であることに安心して、“神は自分たちを守られる”と思い込んでいた。罪意識がおかしくなっていたのである。

 

 神はエレミヤを通して、「この契約のことばを聞け」と人々に語りかける(2)。「契約のことば」とは、神の約束のことば、みことばのことである。みことばに耳を傾け、みことばに向き合うことによって、自分の罪が明らかにされる。私たちはみことばによらなければ、自分の罪を正しく認識することはできないのである。

 

 礼拝でみことばを聞いていると、罪が示される。そのような罪意識は大切にすべきものである。なぜなら、みことばによって罪が示される時には、みことばによって救いも備えられているからである。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は…その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださる。」(Ⅰヨハネ1:9)このように、みことばによって罪の赦しは約束されている。

 

 こうして、みことばに向き合うことにより正しく罪を認識することができ、みことばによって救いが与えられる。「この契約のことばを聞け。」(2) 私たちは、みことばから離れてはならない。

 

 神はみことばを聞こうとしないイスラエルのかたくなさに対して、「彼らにわざわいを下す」と言われた(11)。私たちもイスラエルの人々と同様、神に対してかたくなさがあり、わざわいを宣告されてもおかしくない。しかし神は「新しい契約」(エレミヤ31:31、ルカ22:20)、主イエス・キリストを私たちにお与えくださった。主イエスは私たちが果たし得なかった「契約のことば」を守り行い、「あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる」という祝福を獲得してくださった。神の救いも、祈れることも、神に信頼できることも、すべては主イエスによって与えられた恵み、神のあわれみである。