エレミヤ18章1〜12節

「赦す権威、罰する権威」

 

 神はエレミヤに「立って陶器師の家に下れ」と命じられた。エレミヤが陶器師の家に行くと、職人はろくろで器を作っていた。そこで神はエレミヤに語りかけた。「この陶器師のように、わたしはあなたがたにすることができないだろうか。」(6) 職人は器を作る際、自分の思い描く形になるまで何度も作り直すことができる。それと同様に、神はイスラエルの民を自分の御心の姿に作り直す主権があるのではないか、と言われた。

 

 確かに神は主権者であって、人を赦す権威も人を罰する権威も持っておられる。しかし神は、横暴な権力者のようにその時の気分や自分の好みでご自分の権威を使うことはない。神は自らが律法を定め、律法を守ることによって、正義と公正を行われる。

 

 それ以上に、神はご自分の意志によって、罰する権威よりも赦す権威を使おうとされる。この時、イスラエルの民は罪に罪を重ね、律法によれば「わざわい」(罪に対する罰)を受けてもおかしくない状況であった。しかし神は、それでもなお「悪の道から立ち返り、あなたがたの行いとわざとを改めよ」と語り(11)、「わざわいを思い直す」から神を信じるように、と招かれる(8)

 

 わざわいを思い直すとは、謝罪する相手を信じて受け入れ、怒りと復讐に燃える心を自制することである。これは、大きな心がなければ到底、成し得ない。しかし神は私たちを罰することを望まず、私たちが神を信じ、救いを得られるように働きかけてくださる。このようにして神は、罰する権威ではなく赦す権威をお使いになる。ここに神の愛が表れている。

 

 人は“なぜ自分がこんな目に遭うのか”と、神に怒りを燃やすことがある。しかし、これは神の主権を誤解しているのであって、聖書の神はそのようなお方ではない。神は私たちの幸せを願い、私たちが神を求めることを喜ばれる。私たちには神に対する怒りや運命に対する憤りがあっても、神はそのすべてをひとり子イエス・キリストの十字架において受けとめてくださる(イザヤ53:6)。神は私たちを救うために、赦す権威を使ってひとり子を犠牲にされた。神は愛である。神はあなたを待っておられる。