エレミヤ書4章1〜15節

「みことばを聞く心を」

 

 主は言われる。「荒布をまとい、悲しみ嘆け」と(8)。これは“自分の罪をしっかりと見つめ、真剣に悔い改めよ”ということである。神は罪を赦そうとしておられる。しかし罪をうやむやのまま、赦すことはできない。それ故、悔い改めを命じられる。

 

 しかし、私たちには繰り返してしまう過ちがあり、気をつけていてもにじみ出る汚れがある。悔い改めも、どこかいい加減になってしまう。罪に対して、脇が甘いのである。罪人である私たちは、どんなに悔い改めても、自分で自分の罪を処理できない。

 

 それでは、“罪を止められないのだから、悔い改めても意味がない”のか。そうではない。神はそういう私たちを赦そうとしておられる。だからこそ、より真剣な悔い改めが求められるのである。

 

 「耕地を開拓せよ」と主は言われる(3)。新しい手つかずの土地を耕し、石や岩を取り除き、雑草やいばらを抜いて、そこを良い地にする。そのように、神に対して自分が“良い地”であるために、自分にできることをする。小さな変化であっても、変えられるところは変える。環境を整える。行動を起こす。そのようにして、神に対して誠実な態度、まじめな姿勢を保てるようにする。

 

 主イエスは、マタイ13章で種まきのたとえを話された。道端に落ちた種のような心とは、みことばを聞いても、その意味を知ろうとしない人。岩地に落ちた種の心とは、みことばを聞いて意味を知ろうとするが、自分に負担がかかることや危険が迫ると身を引いてしまう人。いばらの中に落ちた種の心とは、みことばを喜ぶが、世のことに心を使いすぎて、みことばが実を結ばない人。これらに対して、良い地に落ちた種の心とは、みことばを喜び、みことばに感謝し、みことばに期待して力を得る人である。

 

 私たちは礼拝でみことばをいただき、みことばの祝福によって生かされている。時には、道端/岩地/いばらのような心になることもあるが、その時には“みことばを聞く心”をいただいて、「耕地を開拓」することができる。“みことばを聞く心”、そこからすべてがはじまり、そこにすべてがある。“みことばを聞く心をください”と祈り求めよう。