エレミヤ46章1〜12節

「引き抜き、引き倒し、建て、植える神」

 

 BC605年、アッシリアとエジプトの連合軍は、ユーフラテス川河畔のカルケミシュにてバビロン軍と戦った。この箇所には、その戦いの様子が記されている。「盾と大盾を整えて、戦いに向かえ」とエジプト軍を奮い立たせる声がするが(3)、結果は「何ということか、この有様」というエジプトの壊滅的な敗北に終わった(5)

 

 私たちの神は、「引き抜き、引き倒し、建て、植える神」である。歴史を見ると、ある国が衰退し・歴史上から姿を消してゆく。また別の国が勢いを付け、世界の覇者になってゆく。そのような歴史の出来事の背後に、主なる神の御手が伸ばされている。実に神は世界を統べ治めるお方として、ご自身を顕しておられる。

 

 歴史の移り変わりにおいて、秩序あるものが壊され、秩序のないものになることがある。道路やライフラインが整えられた町が、自然災害や兵器によって破壊されてしまう。人の命が奪われる。当事者にとっては、それは忘れることのできない深い痛みとなって残り続ける。しかし、そのようなところにも、「建て、植える神」であるお方がそこにいてくださり、私たちを支え、また強めてくださり、力を与えてくださる。

 

 バビロン捕囚によって、イスラエルの民は礼拝の秩序を失った。異国の地、神殿も契約の箱もない、祭司もいけにえもない中、神は預言者を通してみことばを語られた。礼拝に集まった人々は、律法を学ぶことによって神を愛して生きる道を求めた。こうして、新しい礼拝の秩序へと導かれたのである。

 

 『善き力にわれ囲まれ』という賛美がある。その詩は、ナチスドイツと戦った牧師、ボンヘッファーの作である。「善き力に守られつつ、来たるべき時を待とう。」ボンヘッファーは婚約者との別れを覚悟していた。自分が処刑されることを予期していたのである。それでも「善き力に守られつつ」、自分たちを支えてくださるお方に信頼して、時を過ごそうと呼びかけている。静かでありながら力強い言葉である。

 

 私たちが願うような展開でなくても、そこにも「建て、植える神」がおられる。「善き力に守られつつ」、進んでいきたい。