コロサイ人への手紙3章1〜17節

「上にあるものを求めて」

 

 コロサイ教会は、禁欲的な教えを語る異端の影響を受けていた。彼らは、聖書が教えていない「人間の戒めと教え」を勝手に作り出し(2:22)、それを守るように教えたのである。パウロは異端の教えに反論しつつ(1,2章)、3章で主を信じた人の生活を語る。

 

 主イエスを信じた人は、「バプテスマによってキリストとともに葬られ」ている(2:12)。無論、これは肉体の死のことではない。神に背を向け、神を知らずに生きてきた自分は、主イエスを信じた時点で区切りをつけた。それをパウロは“死んだ”と表現する(3)。また別の言い方で、「古い人」を「脱ぎ捨てた」と語る(8)

 

 ザリガニは脱皮して新しい身体になると、二度と古い身体に戻らず、新しい身体で生き続ける。それと同じように主を信じた人は、主を知らない自分に戻らず、主を信じた私を生き続ける。

 

 主イエスを信じた人は、「キリストとともによみがえらされ」ている(1)。古い人を脱ぎ捨てただけでなく、「新しい人を着た」のである(10)。しかも「新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至る」とある(10)。キリスト者はリニューアルにリニューアルを重ね、キリスト者として新しくされ続けながら、天に迎えられるまでの時間を主と共に生きるのである。

 

 それ故、主を信じた人は「地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい」と言われる(2)。すなわち、様々な欲やむさぼり、悪意や怒り、悪い言葉にとらわれてしまう自分を「捨て」(5,8)、深い同情心や愛、謙遜、柔和、平和、感謝など(12-15)、主イエスのところにある「上にあるもの」を求めて生きる。実に、“上にあるものを求めて”生きることが、“主を信じた人の生活”である。

 

 人とかかわって生きる中で、私たちは忍耐することや受け入れることを求められる。葛藤や悩みを経験しつつ、天に目を向け、地上のものを手放し、主の助けを祈り求めたい。そのような取り組みの中で、欲やむさぼりや怒りを捨てつつ、“上にあるもの”を求めよう。そして最後には「キリストがすべてであり、すべてのうちにおられる」(11)こと、“ここにも・あそこにも、主イエスの恵みで満ちている”ことを見せていただけるのである。