ヘブル人への手紙2章14〜18節

「死の恐怖から解放するイエス」

(浜田進師 まとめ:佐野師)

 

 「人は死そのものではなく、死を考えることを恐れるのである」と哲学者セネカは語った。死は不気味であり、日本では「死」と「4」をかけて“縁起が悪い”とする。私たちはどこかで、死の不気味さを感じながら生きているのではないか。聖書は、そのような姿を「一生涯死の恐怖につながれて奴隷」と語っている(15)

 主イエスは私たちと同じような人となられて(14)、私たちの「大祭司」となってくださった。大祭司とは、イスラエルの民を代表して神様の御前に立ち、罪のためのいけにえをささげ、神様から罪の赦しをいただく職務である。主イエスは「あわれみ深い」大祭司として、私たち人間の様々な弱さをご自分のものとして引き受けてくださった(17)。実に主イエスは、ご自身が数多くの誘惑と試練を受けて苦しまれたので、私たちの悩みや苦しみをわかってくださるお方である。

 また主イエスは「忠実な」大祭司であられた(17)。十字架という神様から与えられた「杯」を飲み干し、最後まで神様に従い通された(ルカ22:42)。主イエスは十字架の上で、大祭司として「あの人たちをあわれんでください」ととりなしてくださり、私たちの罪の赦しを神様に祈ってくださった。これが「民の罪のために、なだめがなされる」ということであり(17)、私たちが死の恐怖から解放される根拠である。

 キリスト者も、死を避けることはできない。しかしキリスト者の死は、大祭司主イエスの十字架によって、罪に対する償いではなくなった。死は、“罪を犯してしまう自分”から“罪を犯さなくなり・永遠のいのちをいただく自分”へと変えられる機会である。主イエスの約束を信じて歩もう。