ヘブル10章35節〜11章7節

「神に喜ばれている者たち」

 

 ヘブル人への手紙は4章後半から10章まで、大祭司イエス・キリストについて語った。主イエスは大祭司として私たちの罪を償ってくださり、神の安息に至る道を拓いてくださった。私たちは信仰によって、神の御前から「恐れ退くのではなく、信じていのちを保つ者」とされている(10:38)

 

 「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(1) 「望む事」と「保証」、「目に見えないもの」と「確信」は相反する内容である。この世においては、保証がないから望むのであり、保証されているなら望む必要はない。ところが主イエスを信じる信仰においては、相反する両者が結び合う。

 

 たとえば、永遠のいのちについて。永遠のいのちを見た者はいない。しかし主イエスによって、永遠のいのちはすでに与えられたと信じている。死を経験する前から、死の後は主イエスのところに行くと確信している。死そのものの不気味さはあるとしても、死後についての思い煩いからは解放されて生きることができる。信仰によって、まだ見ていないものを確信し、望んでいることが保証されて安心している。これはまさに信仰の力である。

 

 「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り」(3)。当時、教会は迫害されていた。迫害下の教会は、この世界が神によって造られたと信じることで、迫害の現実さえも神の御手のうちにあると受け止めた。私たちも、この世界を信仰をもって受け止めたい。神はこの世界を御手におさめ、みことばによって新しい御業をなしておられる。

 

 「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」(6) 神は信じる者を喜んでくださる。悔い改めた罪人を天の軍勢とともに喜び(ルカ15:10)、主イエスの衣のすそをさわれば病が癒やされると信じた女性に「あなたの信仰があなたを直した」(ルカ8:48)とその信仰を喜ばれた。信仰の手で主イエスをしっかりと掴み、神に喜ばれる者とされていることを支えにして、神に近づく者でありたい。主が来られるまでの試練の時代を、神の家族とともに待ち望むために、助けを求めて大胆に御前に進み出たい。