ヘブル6章1〜20節

「神の約束の相続者」

 

 この手紙の著者は、まるで礼拝説教を語るように読者に訴える。「私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか」(1)。この言葉の背後には、信仰の“初歩”から離れようとしない、いわば成長することを拒む幼子のような者たちがいたことを示唆している(5:11~14)。これは、主イエスを信じる決意表明をしていながら、実生活では主イエスを頼って生きようとしない人のことである。

 主イエスを信じるとは、心の中だけのことではない。信仰とは信頼である。自分の生活で主イエスに従い、主イエスに信頼して生きることを通して信仰の成熟を目ざすのである。

 もし成熟を目指さないで、信仰の“初歩”から離れようとしないなら、その人は「堕落して」いる(6)。しかも、「そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません」と続く。これは強烈な言葉であって、多くの議論を沸き起こした。この言葉を“教会から離れた知人や家族”に当てはめて失望する人。“自分”に当てはめて絶望する人など。しかし逆説的ではあるが、この言葉に触れて自分を省みて悩む人は、決して堕落しているのではない。その人は、信仰の成熟へ向かおうとしているのである。

 神様は私たちに約束と誓いを与えてくださった。アブラハムが「忍耐の末に約束のものを得」たのは(15)、神様の約束と誓いが真実で確かなものであったことの実証である。実に、神の約束を得ていない人は、錨を積んでいない船のようなものである。その結末は、波に流され嵐に破壊される。しかし、神様の約束と誓いは「安全で確かな錨の役を果た」す(19)。嵐の中でも錨があれば座礁しないように、私たちは迫害という嵐でも、神様の約束と誓いによって信仰から離れることなく守っていただける。私たちは、主イエス様がくださる約束の確かさを正しく認識できているだろうか。神様の約束によって、私たちは神様ご自身につなぎとめられている。この確かさに感謝し、成熟を目指そう。

 

「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。」(1