ホセア書13章4〜14節

「高ぶりは破滅に至る」

 

 北イスラエルはBC722年にアッシリア帝国によって滅ぼされ、イスラエルの民は捕囚としてアッシリアに連れて行かれた。預言者ホセアは、イスラエルの民が滅亡に至るまでの間、神に対して恐るべき不遜な態度を取り続けたことを告発している。

 

 イスラエルの民族的な独立は、出エジプトという出来事にある。エジプトで奴隷とされていた人々が、神の不思議な力と導きを得てエジプトから救われ、40年間の荒野生活の後、約束の地カナンに入った。しかしイスラエルは、神の奇跡と恩恵を「食べ飽きた」(6)。彼らは神の恵みを当たり前に思うようになり、その結果、「彼らの心は高ぶり、わたし(神)を忘れた」のである。

 

 忘恩と高慢の罪は、私たちにも他人事ではない。主イエスは「心の貧しい者は幸い」と言われた(マタイ5:3)。心の貧しさとは、神の前に低くなり、神の恵みを求める心である。これは、自分の心がけでどうにかなるものではない。全能者であり愛であり聖である神との交わりにおいて、みことばとの取り組みの中で与えられるものであると心したい。

 

 神はアッシリアを遣わしてイスラエルの罪を裁き、悔い改めを求められた。人々はアッシリアに恐れ惑ったが、それでも神に帰ろうとはしなかった。まるで陣痛のような激しい痛みに襲われながらも出産を拒む者であるかのように(13)、イスラエルは悔い改めることをかたくなに拒み、高ぶりを捨てなかったのである。

 

 その結果、「死よ、おまえのとげはどこにあるのか」と語られた(14)。これは、“死よ、おまえのとげでイスラエルに最後の一撃を加えよ”という判決を下す言葉である。イスラエルの高ぶりは、自身を破滅へと至らせたのである。

 

 しかし驚くべきことに、使徒パウロはこの言葉を「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか」と引用し、死に対する完全な勝利を告げた(Ⅰコリント15:55)。それは、主イエスが“高ぶりから来る破滅”を引き取り、十字架で死んで罪の償いを成し遂げ、死そのものを打ち破って復活されたからである。破滅に至る高ぶりから私たちを救ってくださるお方は、主イエスだけである。