ホセア8章1〜14節

「だれにも喜ばれない器」

 

 神様が嘆いておられる。民は「私たちイスラエルは、あなたを知っている」と語るが、彼らの行動は「神を知っている」とは思えない、自分勝手なものだったからである。

 神様を知るとは、人格的な関係である。相手のことを理解し、自分も受け入れてもらう。また知ることには行動が伴う。たとえば、相手が嫌がることを“認識する”だけでなく、“それをしない”こと、“それをしたら謝る”。知るということは、その相手に対する愛と誠実を含んでいる。

 私たちは神様を知っているだろうか。たとえば礼拝することや隣人を愛することは、「決まり」ではない。神様を愛する行為として、それをする。決まりだからするのではなく、神様を喜ばせたいからするのである。

 人々は、自分を満たすことを追い求めた。お気に入りの王様を立て、都合の良い神様を作った。自分を満たす道と神様を喜ばせる道は、全く逆方向を向いている。私たちはどこに向かって生きているのか。自分を振り返ってみたい。

 アッシリアの脅威が迫る中、人々は諸外国に贈り物をして助けを求めた。神様を忘れたわけではない。しかし彼らの礼拝は、実質的には“礼拝するから救ってくれ”という取引になっていた。危機に直面する時こそ、神様に一点集中して、悔い改めと祈りによって神様を頼らなければならない。神様はあわれみ深いお方であって、神様を頼る者を救ってくださる。神様の愛は、ホセアの結婚で現わされたように、罪から離れない者を“それでも愛する”愛である。神様の愛にすがり、神様を知る者とさせていただこう。

 

「主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが目覚めていても、眠っていても、主とともに生きるためです。」(Ⅰテサロニケ5:10)