マタイの福音書13章53〜58節

「主イエスにつまずく時」

 

 主イエスは郷里の会堂でみことばを語られた。人々はイエスの説教に神の存在を強く感じて驚いたが、主イエスにつまずいてしまう。その理由は、人々がイエスをよく知っていると思っていたからである。イエスは大工の息子で、母はマリヤ、兄弟たちも妹たちもよく知っていると人々は思った。人々は主イエスを神からの救い主として見ることができず、知り合いと見てしまった。

 

 私たちは、知っていると思うことに対して、信じて従うのが難しく感じる時があるのではないか。たとえば「隣人を愛しなさい」と説かれると難しいと思う。それは、自分が相手のことをよく知っているからである。よく知る故に、“あんな人を愛せない”とか“あの人を愛するなんて無理だ”と抵抗を感じてしまう。

 

 つまずくことは誰にでも起こり得るが、つまずきは信仰を学ぶ機会となる。たとえば、みことばに助けられて、自分がよく知る相手を“神が私に出会わせてくださった人”と見ることができれば、そこから神さまに従ってみようと思い直すことができる。

 

 ペテロは弟子になる前、漁師をしていた。ある時、主イエスから「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。ペテロは思わずこう言った。「先生、私たちは夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。」事実、徹夜で働いたが不漁だったのである。ペテロは“こういう日は魚が取れない”とわかっていたが、自分の認識を手放して言った。「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」すると大漁になった。知っているという認識を手放して、みことばを握る幸いを教えられる。

 

 知っているという認識を握りしめるのは、自分の部屋に閉じこもってしまうのに似ている。主イエスは戸の外でノックするように、みことばを通して語ってくださる。私たちは知っているという自分の認識を手放し、主イエスを心に迎え入れることを、主イエスは願っておられる。主イエスの兄弟たちはこの時は主イエスにつまずいてしまったが、復活の主イエスにお会いして信じるように導かれた。自分の頑なさの故につまずきやすい私たちであるが、心を開いて主イエスを迎え入れるよう導かれたい。