マタイの福音書15章1〜20節

「汚(けが)れからの救い」

 

  ユダヤ人は汚(けが)れを避けるため 、食事の前には手を洗う儀式を行っていた。なぜなら、汚れに触れてしまうと、一時的に神の御前に出られなくなるからである。彼らは日常生活のあちこちに汚れに触れるリスクがあると想定し、手を洗う儀式を重んじて身体に汚れを取り込まないように教えていた。

 

 しかしこれは、汚れについて誤った理解であったため、主イエスと弟子たちは手を洗う儀式を行わなかった。すると主イエスのもとにパリサイ人たちがエルサレムから来て、手を洗う儀式をしないことを批判した。

 

 これに対して主イエスは、「口に入る物は人を汚しません」と言われた(11)。つまり、手から口に入る物は本物の汚れではないのであり、手を洗う儀式には意味がない、ということである。そして、本物の汚れとは「口から出るもの」すなわち、人の心から出てくるものであると説いた(11)。人の心から「悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしり」などが出てくるということは、それだけ人の心が汚れているということである。私たちが問題にすべき本物の汚れは、人の心にある。

 

 パリサイ人たちは言い伝えを重んじるあまり、みことばを軽んじてしまった。1つの例がコルバン(ささげもの)という言い伝えである。たとえば、年老いた親を支えるお金を「コルバンにする」と誓うなら、そのお金は例外なく神殿にささげられるものとなった。こうしてパリサイ人たちは、「父と母を敬え」というみことばよりも、コルバンという言い伝えを重んじてしまった。

 

 人間の言い伝えは、心の汚れに対して無力である。しかし神のみことばは、汚れに対して働きかける。みことばは人の心を照らし、自分の心にある汚れに気付かせる。そればかりか、みことばは私たちを神へと向かわせ、神の助けとあわれみを求めて祈るように導く。これが、みことばの力であり、みことばの働きである。

 

 私たちは、神のみことばを脇に押しやったり、無視するのでなく、みことばを心に留め、みことばの光の中を歩む者でありたい。みことばを無にしない(6)。これが汚れからの救いである。