マタイの福音書15章29〜39節

「神の愛の奇蹟」

 

 主イエスのもとに、様々な不自由さに苦しんでいた人たちが連れて来られた。主イエスは彼らを深くあわれみ、癒やされた。話せない人が話せるようになり、手足の不自由な人が直り、足の不自由な人が歩き、目の不自由な人が見えるようになった。

 

 人は様々な不自由さを抱える。先天的なハンディキャップ、病による障がい、老いによる衰弱、心理面から来る身体の不具合などがある。また、それ以外にも罪に起因する不自由さがある。怒りや妬みの感情に振り回されたり、自分の言葉や気持ちをコントロールできないことがある。主イエスは不自由さに苦しむ者を深く愛され、大切にされた。不自由さを抱える者たちが主イエスに出会い、生きる力をいただく。ここに教会の姿がある。

 

 主イエスは、群衆がお腹を空かせているのをご覧になり、何かせずにはいられない衝動に駆られた。そこにあったのは、7つのパンと小さな魚が少し。主イエスがそれを感謝して分けると、不思議なことに大群衆を満たすだけのパンと魚になり、さらに大きなかごに7杯分のパン切れが余った。ここで余ったパン切れは、人々の必要を十二分に満たす主イエスの愛を示している。主イエスは与えて与える神の愛で、私たちのことを心にかけておられる。

 

 私たちは神の大きな愛を、人間の基準で小さく見積もらないようにしたい。自分の考えで、“これは赦されないだろう”などと神の愛を制限したり、神の愛に条件を付けてはならない。神は揺るがない愛で、愛を貫いてくださる。その愛はあまりにも大きく、この世の常識では計測不能である。なぜなら神はこの世から派生した神ではなく、この世の外から来られた神だからである。

 

 弟子たちは、主イエスが“何か食べ物を”と言われた時、“無理です”と応えた。彼らは5千人の給食の奇蹟の経験を生かすことができなかった。私たちはどうだろうか。これまでに神からいただいた恵みの経験を、祈りにおいて生かしていきたい。

 

 私たちに与えられている神の愛は、奇蹟と言うべきものである。神の愛の奇蹟の中を歩むことを通して、その愛の広さ・長さ・高さ・深さを知ることができますように(エペソ3:18)。