マタイの福音書16章1〜12節

「信仰の道筋を求めて」

 

 パリサイ人とサドカイ人が、主イエスを試そうとして「天からのしるし」を求めた。人は「天からのしるし」を求める。たとえば、神がいるなら世界から戦争を無くしてみろという論理も、その一例である。人には、自分に益があるか・ないかで、神を信じる・信じないを決める実利主義的な傾向がある。

 

 しかし、自分の益を基準に神を信じようとすると、どうしても神を疑うことに傾いてしまう。なぜなら、人にはブラックホールのような穴があり、その穴からあらゆる良い経験が吸い込まれてしまうからである。どんなに幸せな体験であっても、記憶としては残っていてもその喜びが長く続くことはない。そうやって幸いを忘れてしまう私たちが自分を基準にすると、“与えられたこと”よりも“与えられていない”に目を向けてしまう。その結果、神の愛を疑ったり、みことばを信じられなくなってしまう。

 

 主イエスは、自分を基準にして神を信じる考えを気をつけるように警告している。実利主義的な考え方は、いつの間にか自分の心を占拠し、そのようにしか考えられなくなる。主イエスは、「天からのしるし」を求めるのではなく、「時のしるし」を見分けなさいと言われた。「時のしるし」は「ヨナのしるし」と言われており、主イエスが低くなられたことを指している。

 

 主イエスは神の御姿を捨てて人となられ、罪のないお方であるにもかかわらず罪人と呼ばれ、あの十字架で処刑された。すべては私たちのためである。そこまでして、主イエスは低いところに来られた。私たちは、このような主イエスを見出すべきである。

 

 私たちは漠然と幸せが天から降ってくるのを待ってしまう。車を運転していて青信号が続くだけで良い事が起きた気になる。そういうことでは喜ぶのに、なぜ主イエスの十字架を新鮮に喜べないのか。自分がいつの間にか実利主義的な信仰になっていることに気づかされる。しかし私たちが自分の罪や愚かさを認め、悔い改めて低くなる時、そこに主イエスはいてくださる。低くなるところに主イエスはおられ、神の国が与えられる。私たちに与えられている信仰の道筋は、上へ上へでなく、下へ下への歩みである。