マタイの福音書1章1〜17節

「高くにありながら近いお方」

 

 マタイの福音書は、イエス・キリストの系図から始まる。しかしこの系図は、主イエスの血筋をたどる系図ではない。神の約束がどのようにイエス・キリストにつながったかを系図の書式で示したものである。著者マタイはアブラハム、ダビデ、バビロン捕囚に注目させ、神の約束を際立たせている。

 

 アブラハムは自分の跡継ぎのことで試されていた。神が彼の子孫を星空のように増やすと約束された時、アブラハムはその約束を信じ、それが彼の義と見なされた(創15)。これが今日の信仰義認(主イエスを信じることによって救われる)の原型とされる。

 

 またアブラハムは、最愛のひとり息子をいけにえとしてささげるように命じられる試練を受けた。これは、神がそのひとり子イエス・キリストを十字架でささげてくださったことの原型である。

 

 ダビデは、イスラエル史で最も理想的な王と見なされた。ダビデの信仰に基づく行動はイスラエルに大きな祝福を与えた。ダビデの子孫から救い主が与えられると約束され、救い主は「ダビデの子」と呼ばれ、ダビデのような栄光の王が期待された。

 

 しかしダビデは「ウリヤの妻」(6)に関する大きな罪を犯した。ソロモン王以降には、イスラエルに異教の神々を持ち込んだ悪王が7名、記される。宗教改革を行った王や預言者たちの活動にもかかわらず、イスラエルは罪の中に沈んだ。その結果、バビロン捕囚という神の裁きが下されることになった。バビロン捕囚は、人間が罪からの自力救済が不可能であることを示している。

 

 そのような人間を罪から救うために、主イエスは来られた。主イエスはどんなに罪深い者でも見下げることなく、その人の仲間となり、救いに導き、希望を与える救い主である。

 

 バビロン捕囚の後、イスラエルは願ったようには復興ができず、周辺諸国に支配された時代を歩んだ。そんな中、ダビデのような救い主、栄光の王を待ち望む機運が高まり、祈りがささげられた。神はその祈りを聞き、ついに時が満ちて、救い主がこの世に与えられた。そのお方が、イエス・キリストである。主イエスは神の約束を実現するお方でありながら、私たちに近いお方である。