マタイの福音書4章1〜11節

「主の十字架を仰いで」

 

 主イエスは洗礼を受けた後、悪魔の誘惑を受けるために御霊に導かれて荒野へ行かれた。御霊に導かれた先で誘惑を受けるとは奇妙な感じがするが、これは“主イエスと共に生きる人は、悪魔の誘惑と向き合い続ける”ということを示している。

 

 最初の誘惑は、“神の力で石をパンに変える”ことであった。主イエスは断食の後で弱り切っていたので、神の力で石をパンにして空腹を満たすことは合理的に見える。しかし、悪魔の提案に賛同することは、救い主の使命を放棄することを意味した。主イエスは私たちの罪を背負うために人となられたが、神の力で空腹を満たすならば、もはや人ではなくなってしまう。主イエスは悪魔に「人は神の口から出る一つひとつの言葉で生きる」とお答えになった(4)。真の意味で“生きる”とは、単に食物を食べて生存することではなく、食べることを通していのちの源である神を知り、神に感謝することである。

 

 次の誘惑は、“神殿から身を投げて天使に助けさせるパフォーマンスによって、自分が救い主であることを認めさせる”というものであった。悪魔は詩篇91:12を引用して誘惑するが、主イエスは「主を試みてはならない」とお答えになった(7)。悪魔は“主が守ってくださる”というみことばを逆手に取って、“たとえ神殿から飛び降りても守る”という意味に書き換えた。こういう書き換えは、“神が本物かどうかを試すこと”であって、自分を神(審判者)とすることである。神さまだけを神とし、聖書を神のことばとして重んじることが、主を試みることから守られる道である。

 

 最後の誘惑は、“悪魔を拝むことで、全世界の国々と繁栄ぶりを手にすること”であった。これは“十字架にかかることなく、世界から戦争と食糧危機をなくして救い主になる”という誘惑であった。主イエスは「引き下がれ、サタン」と言って悪魔を退けた(10)。そして主イエスは、罪と死に対して救いの道を与えるため、ご自分が十字架で死ぬ道を選ばれた。主の十字架を仰ぐ時、誘惑への勝利があり、誘惑に流されても回復する赦しがある。主の十字架に、私たちの生きる道がある。主の十字架を仰いで進もう。