マタイの福音書4章18〜25節

「わたしについて来なさい」

 

 主イエスは、ガリラヤ湖で漁師をしているペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネを弟子として招かれた。彼らは以前から主イエスと面識があり(ヨハネ1:35)、主イエスの言葉を聞き、主イエスの奇跡を目撃していたと思われる。そして“ナザレのイエスこそ、約束の救い主ではないか”という予感を抱いていたのではないか。だからこそ、弟子に招かれた時、網・舟・父親という大切なものを手放して、ただちに主イエスに従うことができた。

 

 主イエスはペテロやヨハネのような弟子だけでなく、私たち一人ひとりに「わたしについて来なさい」と招いておられる。10代でも100歳を過ぎても、“全生涯をかけて、わたしについて来なさい”と招かれる。何度も・何度でも、“さあ、わたしに来なさい”と招いてくださる。主イエスの招きに支えられ・励まされて、私たちは主イエスを信じ続けることができる。

 

 主イエスに招かれる人は、自分のすべてを“主イエスから受け取り直す”ことになる。主イエスに従う時に、自分の仕事もキャリアも家族も、“主イエスから与えられたもの”として受け取り直すのである。主イエスからいただいた仕事やキャリアだからこそ、報酬の一部を献げる。主イエスからいただいた家族だからこそ、家族の悩みを主に打ち明けて助けをいただくことができる。

 

 主イエスは「あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」と言われる(16)。人間をとる漁師とは、人を主イエスに導くことである。この役割は“あなた”ではなく「あなたがた」に与えられており、教会が意識されている。教会の洗礼式は、人間をとる漁師としての喜びを教会全体で味わう時である。

 

 主イエスはガリラヤを巡り、福音を宣べ伝え、病気やわずらいをいやされた(23)。弟子たちは主イエスを手伝いながら、主イエスによって救われる人々を目の当たりにした。それは楽しい体験であり、神の国の喜びであった。主イエスは私たちを“人間の漁師”として救いの働きに加えてくださり、神の国の喜びを私たちと分かち合おうとしておられる。「わたしについて来なさい」という主イエスの招きに応え、神の国の喜びへと導かれて行きたい。