マタイの福音書5章13〜16節

「地の塩、世の光」

 

 主イエスは「あなたがたは地の塩です」と言われた。旧約聖書の預言者たちは、「地の塩」としての役割を果たした。たとえば預言者エレミヤは、王の願いや民意に逆らっても、主のみことばをまっすぐに語った。エレミヤは人々に拒まれ・迫害されたが、結果的にはエレミヤが語った通りになった。

 

 「地の塩」の役割は、“この世において神に従う姿を示すこと”である。世からどう見られようと、厳しく対立しようと、神に従う自分であり続ける。そこに「地の塩」としての役割がある。

 

 私たちは「地の塩」として塩気を保つために、何ができるのか。それは、みことばを求めることである。私たち自身は「地の塩」として不適格な者であるが、私たちがみことばを求める時、その姿が神の御手によって「地の塩」として用いられるのである。

 

 また主イエスは「あなたがたは世界の光です」と言われた。山の上にある町の光は、どこからでも見える。また夜、家の中でランプを灯す時に、貴重なあかりを隠すことはしない。光は輝いてこそ光である。私たちは、自分たちの「良い行い」をこの世で輝かせることによって、この世界に神がおられることを示し、「世の光」の役割を果たすことができる。

 

 この「良い行い」とは、みことばに従う姿を示すことである。初代教会は迫害の中でも、みことばに従う姿を世に示した。その姿が「世の光」として用いられ、大勢の人々が主イエスを信じた。これが、ローマ帝国のキリスト教公認に大きな役割を果たした。

 

 「地の塩」「世の光」として最もふさわしいお方は、主イエスご自身である。主イエスの存在とお働きは、「地の塩」「世の光」の完成形と言える。しかし主イエスは、“あなたがたこそ”「地の塩」「世の光」であると言われて、私たちを主イエスの働きに巻き込んでくださった。主イエスは、私たちが「地の塩」「世の光」として生きるよう期待しておられる。からっぽの私であるが、みことばを求め・みことばに従って歩みたい。そんな私たちの姿が、自分の無自覚・無意識なところにおいて、「地の塩」「世の光」として神に用いられている。自分の力に頼らず、主の約束を信じよう。