マタイ5章7〜9節

「主イエスがいてくださる幸い」

 

 主イエスは「あわれみ深い者は幸い」と言われた。主イエスが語る“あわれみ”には、“目線を合わせる”という意味がある。誰かの悲しみを共に悲しみ、誰かの嘆きをいっしょに背負うことである。

 

 私たちの“あわれみ”には限界がある。助けたい気持ちはあっても、自分には重荷が大きすぎると感じ、次第に疲れてしまう。「あわれみ深い者」になることは、私たちに不可能と思われる。

 

 しかし主イエスは「あわれみ深い者」は「あわれみを受ける」と約束してくださった。自分のあわれみが尽き果てても、神のあわれみを求め、神のあわれみに動かされて、あわれみ深くあろうとするに、主イエスは招いておられる。神は、私たちが誰かにあわれみ深くあろうとすることを見て、喜んでくださる。

 

 続いて、「心のきよい者は幸い」である。ここでも、人の“心のきよさ”を当てにしないで、“神のきよさ”を求めるように招かれている。私たちは、自分の心を自分できよくすることはできない。しかし、「心のきよい者」は「神を見る」と約束されているように、神は私たちの心の汚さにおいて、私たちに出会ってくださる。

 

 神はご自分から進んで救い主を備え、救いの道を完成させ、私たちの罪を赦す用意をしてくださった。そして私たちが、この救いを受け取るように招いておられる。主イエスのおかげで、私たちは罪ある者でも「心のきよい者」とされる。

 

 最後に、「平和をつくる者は幸い」である。さまざまな団体によって平和のための活動がなされているが、主イエスがお語りになった「平和をつくる」とは、主イエスを信じることが土台になっている。主イエスを信じることで、私たちは神の恵みを知る。神の大盤振る舞い、神の無償奉仕において、私たちの日々が支えられ、人生が導かれることを知る。そうやって神が自分に良くしてくださることを、自分と誰かの間に適応する。そういう対応や決断の積み重ねによって、平和が作られる。神は平和を作ろうとする者に目を留め、喜んで“わが子よ”と呼びかけてくださる。

 

 神のあわれみ・きよさ・恵みに信頼し、主イエスの「幸い」に取り組む時、私たちは主イエスがいてくださる幸いを知る。