マタイの福音書 6章1〜4、16〜18節

「隠れたところにおられる神」

 

 主イエスの当時、人々は信仰の証しとして、施しと祈りと断食を行っていた。ところが、“神の恵みに応えて隣人を愛するための施し”が“人前で披露する施し”になり、“神の御心を求めるはずの断食”が“人からほめられることを求める断食”になっていた。

 

 これに対して主イエスは、「隠れたところで見ておられるあなたの父」がおられると言われた。神は「隠れたところ」におられるお方で、私たちの目で見ることはできない。しかし、“おやさしい天のお父さま”として私たちを愛し続け、私たちのことを知り、私たちのことを「見ておられる」父なる神である。

 

 主イエスはここで、私たちに問いかけておられる。私たちが生きるこの世界は、人の目を気にして、人の言葉に左右され、人の評価と人から受ける報いが全ての世界なのか。そうではなくて、その世界には「隠れたところで見ておられるあなたの父」がおられるのではないか。神が共に歩んでくださり、神が私たちのことをわかっていてくださり、神が報いてくださる有神論的な世界なのではないか。主イエスは、私たちが無神論的な世界に生きるのではなく、有神論的な世界に生きて欲しいと願っておられる。

 

 私たちが、有神論的な世界に生きることを惑わすものがある。それは“人にほめられることを過度に求めてしまうこと”である。人間には、「承認欲求」というものがある。子どもが親からほめてもらうことも「承認欲求」であり、これ自体は悪いものではなく、自然なことであり、必要なことである。

 

 しかし「承認欲求」が大きく膨らむと危険である。人に気づいて欲しい、認めて欲しいといった要求が大きく膨らんで“底なし沼”のようになり、「承認欲求」に支配されるようになる。

 

 主イエスは、「右の手のしていることを左の手に知られないように」と言われた。もし、「右の手のしていること」を左の手に知らせるなら、それは自分を満足させることを意味する。しかし自分を満たそうとしても、それは無神論的な世界であり、そこにいのちはない。私たちは「隠れたところで見ておられるあなたの父」がおられることを受け入れ、神の眼差しの中にとどまろう。