マタイの福音書 7章1〜6節

「さばいてはいけません」

 

 主イエスは「さばいてはいけません」と言われた。「さばく」とは、人に対する批判や非難、誹謗中傷などのことである。

 

 私たちは、誰かにさばかれた経験があるだろう。さばかれると辛く感じ、怒り、反論したくなる。また反対に、誰かをさばいてしまった経験もあるだろう。自分のことを棚に上げ、人には厳しい目を向ける。全てをわかったつもりになり、悪いと決めつける。

 

 人をさばくとは、どういうことなのか。主イエスは大いなる皮肉を込めて、“まるで「あなたの目のちりを取らせてください」と言うようなものだ”と言われた。他人の目のちりを取ることは不可能であり、「目のちりを取らせて」と言うのは身の程知らずである。

 

 人をさばく時、私たちは、自分の目の中にある「梁」のような巨大な罪が見えなくなっている。みことばによって自分の罪を認識していても、自分の罪の全貌はわかっていない。私たちは、梁のような自分の罪を見極めることはできないのである。

 

 しかし、主イエスの十字架を見つめる時、私たちは自分の罪の大きさを幾らか感じることができる。なぜ、神のひとり子であるイエス・キリストが、十字架で死ななければならなかったのか。主イエスはなぜ、神に捨てられなければならなかったのか。その十字架の厳しさを見つめ、その理由が自分の罪にあると受け入れる時、私たちは自分の罪がいかに大きいかを知らされる。

 

 主イエスは「まず自分の目から梁を取りのけなさい」と言われた。主イエスの十字架を見つめることで、私たちの目から梁のような巨大な罪が取りのけられる。また、私たちは人の目のちりを取ることはできないが、その人に主イエスを宣べ伝え、共に主イエスを仰ぎ見ることで、目のちりを取っていただける。

 

 12節に「聖なるものを犬に与えるな」とある。これは“福音に抵抗を感じている人に、福音の価値を無理にわからせようとするな”という意味である。しかし福音は宣べ伝えなければならない。私たちもかつては「犬」や「豚」のように福音に抵抗していた。しかし、主イエスによって自分の「梁」のような罪に気づかされ、主イエスの十字架を仰ぎ見て救っていただいたのである。