マタイの福音書 7章13〜14節

「狭い門から入りなさい」

 

 主イエスは「狭い門から入りなさい」と言われた(13)。「狭い門」という言葉は難関試験にたとえられることもある。しかし、「狭い門」は主イエスご自身のことであり、「狭い門から入る」とは主イエスを信じて生きることである。主イエスを信じることが「狭い門」だと言われると、“厳しい道なのでは”と心配になるかもしれないが、主イエスは“あなたもわたしを信じて、この道を歩むことができる”と招いておられる。

 

 主イエスを信じる道の狭さは、救い主が主イエスだけに限定されていることにある。主イエスは「わたしを通してでなければ」神のもとに行くことはできないと言われた(ヨハネ14:6)。この狭さに人々は反発し、ついに主イエスを十字架に追いやった。しかし主イエスは、葬られて3日目に死から復活された。こうして主イエスには、死を超えるいのちがあることが証明された。主イエスは「狭い門」であるが、「いのちに至る門」である。

 

 「狭い門」から続く狭い道は、主イエスが歩まれた道である。主イエスを信じる「狭い門」は、自分を小さくしなければ入れない。自分の罪を悔い改め、主イエスに従う決断が求められる。

 

 主イエスは、「いのちに至る門」から入る者は“少ない”と言われた。世界の宗教人口を調べた2020年の統計によれば、キリスト教は31.3%で最も割合が多い。しかし、この“少ない”とは数量的な意味ではない。むしろ、主イエスを信じて生きる道は、“みんなが行くから自分も行く”という姿勢では続かないということを“少ない”と言い表している。確かに、信仰の道には“みんなは行かないが、自分は行く”という決断が求められる。

 

 大切なことは、「狭い門」から“入る”ことである。傍観者のように「狭い門」をただ眺めるだけでなく、自分で“入る”ことを決断し、主イエスを求めていく。たとえば聖書を読む、自分で祈ってみる、礼拝に続けて出席するなど、小さなことでも良いから、自分で主イエスを求めていく。それは冒険のような道であり、スリルを感じつつ、ワクワクする歩みである。主イエスは私たちを「狭い門から入りなさい」と招いておられる。この道を進もう。