マタイの福音書 8章18〜22節

「いのち逆転の法則」

 

 主イエスの御前に律法学者が来て「あなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります」と弟子入りを志願した。すると主イエスは「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません」と言われて、“あなたは自分にあるものを手放してまで、わたしに従う覚悟があるか”と問いかけた。

 

 主イエスはなぜ、このように振る舞われるのか。その手がかりになるのは、マタイ16:25である。「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだす」。もし、「いのちを失う」つまり手放す覚悟で主イエスに従うならば、その人は神の恵みを豊かに知ることになる(「いのちを見いだす」)。しかし、もし何も手放そうとしない(「いのちを救おうと思う」)なら、「いのち」を見いだすことはない。このように「いのち」をめぐって逆転が起きるのである(いのち逆転の法則)。

 

 私たちも主イエスを信じる上で、手放すことを求められる。自分が罪人であることを認めることも、みことばによって自我が砕かれることも、大きな意味で手放すことである。手放すと、砕かれたところにみことばの光が差し込み、神のいのちが芽吹く。

 

 またこの時、主イエスの弟子が「まず行って、私の父を葬ることを許してください」と願い出た。私たちは“父親の葬式なら当然、許されるだろう”と弟子の言い分を支持するが、実はここにこの弟子の課題があった。それは、自分の基準で“これは許される”と決めてしまい、自分の都合を常に優先させてしまうことである。

 

 主イエスはここで「わたしについて来なさい」と言われた。主イエスは父親の葬式に出ることを禁じたのではないだろう。むしろ、弟子としての原理原則を教えたのではないか。それは、“いのち逆転の法則”を信じて、自分を優先させることを手放し、主イエスを優先させるということである。

 

 この弟子は「まず行って」と、「まず」を自分に結びつけた。しかし主イエスは、「まず」を主イエスに結びつけるように求めている。私たちは“いのち逆転の法則”を心に留め、手放す覚悟で主イエスを優先し、神がくださるいのちに生かされる者でありたい。