マタイの福音書 8章5〜17節

「病を背負う人」

 

 主イエスがカペナウムに入られると、百人隊長が「私のしもべが中風で…ひどく苦しんでいる」と窮状を訴えた。主イエスは「行って直してあげよう」と言うが、百人隊長は「あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはない」と言って断り、「ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります」と言った。

 

 百人隊長は、主イエスに神の権威があることを信じていた。自分自身も権威の下にある人間であり、命じられたことはその通りに遂行する。自分の下にいる人に命じれば、彼はその通りに動く。同様に、主イエスが神の権威によって病に命じれば、病は主イエスの命じたとおりに癒される。そういう意味で「おことばを下さい」と願い出たのであり、だからこそ、自分のような異邦人の家に主イエスを迎える資格はない、と語ったのである。

 

 主イエスは百人隊長の信仰に驚かれた。そして「あなたの信じたとおりになるように」と言われた。彼のしもべは癒された。その後、主イエスはペテロの家に行かれた。するとペテロのしゅうとめが熱病で苦しんでいた。主イエスは彼女も癒された。

 

 マタイの福音書の著者は、これらの癒しの御業をイザヤ53:4のみことばで締めくくっている。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」この「病を背負う」という姿は弱々しい姿であって、癒しの奇跡をなさった主イエスとは相反するように思われる。私たちは、“主イエスは神の御子で、病気一つしない・痛いところもない健康な人”と思っているかもしれないが、マタイの著者は“そうではない”と言う。主イエスは人々の病を癒すことを通して、その病や痛み、それに派生している悩みや心配、どうにもならないもどかしさや、失うことの悲しみを肌身で知る者となってくださった、と言うのである。

 

 私たちが病に伏す時、主イエスは誰よりも私たちのことをわかってくださる「病を背負う人」となってくださった。そればかりでなく、主イエスは十字架と復活の道を歩んでくださって、すべての後に私たちを栄光の身体によみがえらせてくださる。主イエスは病の時の隣人として、私たちのすぐそばにいてくださる。