マタイの福音書9章32〜38節

「収穫は多いが働き手が少ない」

 

 主イエスは、町や村を巡って福音を宣べ伝え、大勢の病気やわずらいをいやされた(35)。 そして旅先で目にした光景から、社会全体が「羊飼いのない羊」のようになっていると語られた(36)。主イエスは、その痛みをご自分のもののように受け止められた。

 「羊飼いのいない羊」とは、病気や患いで苦しんでいる人のことだけではなく、苦しむ人をとりまく社会全体を指す。ある中風の人が友人に連れられて主イエスのもとに来た時、主イエスは「あなたの罪は赦された」と言われた(1)。当時、中風という神経が麻痺する病は罪の報いと信じられていた。この人は病だけでなく罪過の意識に苦しんだはずである。主イエスはその苦しみから解放するために罪の赦しを宣言された。その宣言は福音のメッセージであったはずなのに、律法学者は「イエスは神をけがしている」と批判し、この人の喜びを共に喜ぼうとしなかった。主イエスは“なぜ共に喜ばないのか、なぜ神の救いを受け入れないのか”と嘆き、人に共感できない社会を「羊飼いのない羊」と呼ばれた。

 人間には「羊飼い」が必要である。主イエスは「良い羊飼い」であって、私たちを守り導くだけでなく、共に嘆き・共に喜び・共に育つことを教える。主イエスによって、その社会は“羊飼いがいる羊”となることができる。主イエスは回復された社会を“豊作の畑”として思い描き、「収穫は多い」と語られた(37)

 “羊飼いがいる羊”の社会となるために、主イエスが教えた祈りがある。それは「働き手を送ってください」という祈りである(38)。人が主イエスを“私の羊飼い”として受け入れ教会に加わるようになるのは、「収穫の主」である神ご自身の働きである。自分勝手に“働き手になれる”と思っても、その人をお用いになるかどうかを決めるのは神である。それ故、私たちは「働き手を送ってください」と祈りたい。働き手が送られて来れば、そこに収穫がある。収穫があることを信じて祈ろう。そして自分が収穫をするように導かれたなら、「わかりました」と主に従う者となろう。

 

 

「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」(37,38