マラキ書2章1〜9節

「いのちと平和の約束」

 

 預言者マラキは、ネヘミヤやエズラと同じ時期に活動した。エルサレム帰還が70年前、神殿再建は50年前の頃である。エルサレムに戻れた感激は薄れ、神殿で礼拝できる恵みは当たり前になってしまった。当時は、いなごと日照りによる被害が深刻であった(3:11)。食料への打撃は日常を脅かし、人々の心を蝕み、信仰をくじけさせた。人々は、食用に適さない動物を神へのささげものにしていた(1:8)。そういうことに良心の咎めを覚えなくなるほど、信仰的に冷めてしまった。世間では悪事が横行しても咎められず、神に従って正義を行うことは無意味なことと思われた(3:14,15)

 神様はマラキを通して「わたしはあなたがたを愛している」と語った、人々は「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか」と問い返した(1:2)。「どのように」という言葉には、神様に対する怒り・失望、そして挑発のような気持ちが込められている。

 そんな人々にマラキは語りかける。“あなたがたが聞き入れないなら、祝福をのろいに変える”。一見、脅しのようにみえる言葉だが、神様は人を脅すことはない。神様は脅さなくても、人の心を変えることができる。しかし神様は、人が自分の意志で応答するまで待つことを選ばれる。神様は脅しているのでなく、真剣なのである。挑発的な応答をする人たちに、神様は真剣に“私は愛しているのだ、帰ってきなさい”と招き続ける。

 神様が与えてくださる約束は「いのちと平和」である。神様を信じることは、神様という「いのち」に結ばれることである。神様は私たちの予想を超えて、私を喜ばせ、生きがいを与え、私を助けて守ることで私に「いのち」を与えてくださる。また神様は、救い主イエス・キリストによって私たちの罪を赦し、神との「平和」を与え、永遠の命を得させてくださった。

 私たちが世の中で経験する戦いは厳しい。神様の愛を疑いたくなる時もあろう。だからこそ、私たちは「あの人に神のいのちと平和がありますように」と、誰かのために祈りたい。

 

「わたしの彼との契約は、いのちと平和であって…。」5