マルコの福音書15章1〜15節

「木にかけられた王」

 

 十字架は当時のユダヤの社会で最も重い犯罪者が受ける刑罰だった。祭司長・長老・律法学者たちは、主イエスを憎むあまり、主イエスを殺害したいと考えていた。ユダの裏切りという思いがけない協力を得て、祭司長たちはゲッセマネの園で主イエスを秘密裏に捕縛し、裁判にかけた。

 祭司長たちは主イエスを十字架で殺すために、ローマ総督ピラトの裁判を求めた。ユダヤはローマ帝国に支配されていたために、十字架刑は総督の許可が必要だった。ピラトは、「あなたはユダヤ人の王ですか」と尋ねた。その意図は、“ユダヤの独立を求めてローマに反逆する代表者なのか”ということだった。それに対して主イエスは「あなたが、そう言っています」と答えた(新改訳2017)。ピラトは主イエスには十字架刑に当たる罪はないと判断したが、群衆が「十字架につけろ」と叫んだため、その声に流されてしまった。

 主イエスは「ユダヤ人の王」として十字架で苦しまれた。「ユダヤ人の王」として紫色の衣を着せられ、いたぶられた。ローマ皇帝がかぶる月桂樹の冠をもじって、いばらの冠をかぶせられた。「ローマ皇帝ばんざい」でなく「ユダヤ人の王様ばんざい」とからかわれリンチされた。十字架の罪状書は「ユダヤ人の王」。祭司長たちも「キリスト、イスラエルの王様、今、十字架から降りてもらおうか。我々は、それを見たら信じるから」とあざけられた。

 しかし主イエスは、黙っておられた。十字架で死ぬという神様からの使命を果たすべく、神様のご計画に従い通した(ヘブル5:8,9)。誰に流されるのでもなく、誰のせいにするのでもなく、誰かを恨むこともなかった。その姿は神様がお造りになった罪なき人間の姿であり、私たちを代表する王として、尊厳に満ちた姿であった。主イエスの十字架によって、私たちの罪はすでに償われている。これは福音=グッドニュースである。この福音が私たちに与えられている。