ヤコブ5章1〜20節

「終わりの時を見定めて」

 

 ヤコブは「主が来られる時」のことを語る(7)。主を知らない者にとって、その日は泣き叫ぶ日、悲惨な日となる(1)。主の御前において自分の人生を語る時、この世で自分が蓄えた富や名声など、もはや価値のないものとなる。そして自分が無駄なことに時間を費やしてしまったことに気づいてしまう。自分の生涯を後悔し、火が焼き尽すように、激しく自分を責めることになる(3)

 

 それだけではない。その日、すべての不正が明るみに出る。お金に関する不正(4)、契約や約束に関する不履行(4)、自分の心を太らせ他人を顧みないこと(5)、他人に責任を押し付けたこと(6)など。隠して来た不正が、自分を訴える声となる。

 

 しかし、耐え忍んで主を待つ私たちにとって、「主が来られる時」は究極の救いの日となる。旧約聖書のヨブのように、私たちは試練を経験する。理由もなく重荷を背負わされ、大切なものを失い、病に悩まされ、友の言葉に傷つく。しかし耐え忍んだヨブに、主は豊かに報いてくださった。「主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる」ことをヨブは悟ったのである(11)

 

 私たちもヨブと同じように、主の愛といつくしみ・あわれみを存分に知ることができる。“主は良いお方”と、悟ることができる。 “主を信じて来て良かった”と、豊かに報いを受ける。確かに「耐え忍んだ人たちは幸い」なのである(11)

 

 主を知る者たちには、このような幸いな結末が約束されている。それ故、この世において様々な忍耐をしなければならない時にも、幸いな結末を希望にして耐え忍ぼう。「心を強くする」(8)とは、自分の心を主の約束に固く結びつけることである。“今は耐えなければならないけれども、主にあって最後は豊かに報いられるのだ”と、終わりの時を心に定めるのである。

 

 人は“自分はみじめだ”と感じる時に、耐える力を失う。耐え忍ぶことは、一人ではできない。そのために主は、教会に祈りを与えてくださった。自分で祈ること(13)、祈ってもらうこと(14)、人のために祈ること(16)、祈りの力を信じて祈ること(1618)によって祈りの交わりを作り、ともに主を待ち望むのである。