ヨシュア記24章1〜15節

「私と私の家とは主に仕える」

 

 天に召されようとしていたヨシュアは、イスラエルの人々をシェケムに集め、最後のメッセージを語った。「今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。」(14)

 ヨシュアは「今」を語る。「今」という時をどう捉えるか。今・この時という一点で「今」を捉えるなら、実践的で即効性があることが求められる。それに対して、ヨシュアが語った「今」とは、神さまの恵みを思い返した上での「今」であった。アブラハムから始まり、イスラエルの民の形成、エジプトの奴隷生活、40年の荒野の旅を経てカナンに到着した。ヨルダン川を渡り、カナンの王たちと戦って、今がある。この歴史において、どれだけ多くの神の恵みが与えられたか。それを“神のストーリー”と呼びたい。神のストーリーに触れて「今」を捉えることが、神を信じ続けるためには必要である。

 聖書を理解するために古代イスラエル人の生活について学ぶのは、イスラエルの民に証しされた神のストーリーに触れるためである。私たちは神のストーリーによって、生きる力・励まし・希望をいただき、信じる心を新しくしていただくことができる。

 ヨシュアは「主に仕えよ」と命じる一方で、“他の神々でも仕える神を選べ”とか「あなたがたは主に仕えることはでいきないであろう」と語る。ヨシュアはここで、人々の前に“祝福の道”と“のろいの道”があることを示したのではないかと思われる。

 集会が行われたシェケムは、ゲリジム山とエバル山の間にある町である。かつてヨシュアは、イスラエルの民を2つに分けてゲリジム山とエバル山に登らせ、祝福の道とのろいの道を語って聞かせた(参照:申命記28章)。同じ場所で、ヨシュアは人々に2つの道があることを意識させ、祝福を選ぶように強く勧める。

 私たちの現実にも、“祝福”と“のろい”がある。その中で、日々、自分で“選ぶ”ことを繰り返して生きている。神のストーリーに触れて、神の希望と約束に励まされつつ、「私と私の家とは、主に仕える」という選択をする者でありたい。

 

 

「私と私の家とは、主に仕える。」(15