ヨハネ17章20〜26節

「宣教のための主イエスの祈り」

(飯田国外宣教総主事)

 

 ヨハネ17章には主イエスの祈りが3つ、記されている。父なる神の栄光を求める祈り(18節)、弟子たちのための祈り(919節)、弟子たちによって主イエスを信じた者たちのための祈りである(当該箇所)。つまりこれは、聖書を通して主イエスを信じた私たちのために、主イエスご自身が祈ってくださった祈りである。その内容を2つにまとめると、1)すべての人が一つになるようにとの祈り、2)愛し・愛されるようにとの祈り、となる。

 1)すべての人が一つとなるとは、単に愛によって一致することではない。それは、主イエスが体験しておられる父なる神との一致である。そして、それは主イエスが十字架によって成し遂げてくださった救いによる一致である。その一致した姿によって「世が信じる」ということが起きると言われる(21)

 「世が信じる」とは、“主イエスを敵視する世において、主イエスはキリスト者たちを愛し・祝しておられる”ということを世が認めるという意味である。主イエスが再臨され・最後の審判が行われる時、この世は教会が主イエスと一つになっている姿を見て、父なる神の正しさを認めるようになる(25)。そのような時に向けて、私たちの世界・歴史は動いている。今、主イエスによって私たちは共に神の子とされ、礼拝者とされている。ここに主イエスによって一つとされている姿がある。

 2)主イエスは、私たちが愛し・愛されるようにと祈られた。ここでの愛は、愛する者同士の間だけで成立する愛ではない。それは自分に敵対する者をも愛する愛であり、ささげる愛であり、主イエスにおいて明らかにされた神の愛である。主イエスは、“この愛によって私たちは一つにされている、だから続けて一つにしてください”と祈られた。この愛によって弟子たちは遣わされ、主イエスを宣べ伝えた。そうやって私たちも福音を知り、主イエスに結び合わされた。弟子たちと同様、私たちも主イエスの愛によって世に遣わされている。人々に主イエスを伝えよう。人々は神に愛され・神を愛することを求めている。(まとめ:佐野牧師)