ヨハネの福音書17章1〜5節

「主イエスの祈り、永遠の生命」

(小林和夫師 同盟教団支援教師)

 

 ここには、ヨハネ版の“ゲッセマネの祈り”と言うべき、十字架前の主イエスの祈りが記されている。エル・グレコは「十字架を担うキリスト」と題して、十字架を抱きしめる主イエスを描いた。聖書にはこの絵画のような場面は描かれていないが、まるで、“父よ。時が来ました。まもなく御許に参ります”という主イエスの声が聞こえて来るような作品である。

 

 主イエスは「子の栄光を現してください」と、栄光を求めて祈られた。それは、私たちに永遠の生命を与えるためである。永遠の生命は、主イエスを信じた者たちが得るものであり、教会を成すものである。ヨハネ3:16にあるように、永遠の生命は神の愛の賜物であり、滅びることのないものである。またヨハネ10:28では、永遠の生命は“誰にも奪われない命”と語られている。

 

 永遠の生命は「死の陰の谷」を歩む中でも主イエスを仰ぐようにさせ、殉教者たちの信仰を支える不屈の生命である。私たちもこのような強靭な生命が授けられている。「悩みの日にわたしを呼べ」(詩篇50:15)との招きに応え、主の助けを求めたい。

 

 ヨハネは「永遠のいのちとは…イエス・キリストを知ること」(3)と語り、その後に「神の子がきて、真実なかたを知る知力をわたしたちに授けて下さった」と語る(Ⅰヨハネ5:20)。神を知ることもまた神から授かるもの、ということである。

 

 使徒パウロはこう語った。「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って…」(ピリピ3:10)。「人が神を愛するなら、その人は神に知られている」(Ⅰコリント8:3)。“神を知る”ことはすばらしいことであるが、それよりも“自分が神に知られている”ということは、どんなに豊かなことであろうか。私たちは“神に知られている”という豊かさに支えられ、“神を知る”ことができる。

 

 主イエスを知るには、聖書を読むことである。また主イエスは、祈りの場にいてくださる。祈れなくなっても、主イエスがおられ、御霊がとりなしていてくださる。主イエスを求め、私たちのいのちを豊かにしていただきたい。(まとめ:佐野泰道)