ヨハネの福音書2章1〜11節

「喜びの人生への招き」

 

 主イエスと弟子たちは、カナという村で結婚式に招かれた。当時の宴会は1週間以上に渡って続いたそうである。その途中で、ぶどう酒が底をついてしまった。祝いの席は混乱しただろう。マリヤは主イエスに「ぶどう酒がなくなった」と告げた。

 聖書は、マリヤを「母」と記している。母として、子であるイエスに助けを求めたということだろう(イエスに奇跡を求めたわけではない)。主イエスは、こう応えた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。」一見、冷たい返答に聞こえるが、マリヤはすぐに察知した。主イエスが神のメシヤ(救い主)として動き出そうとしている、と。その瞬間、マリヤはイエスに対する見方を切り替えて、手伝いの者たちに「あの方が言われることを、何でもしてあげてください」と命じた。

 主イエスは、その家にあった水がめ(80120㍑6つ)に水を満たすように命じた。そして宴会の世話役のもとに持っていかせると、それは美味しいぶどう酒になっていた。世話役は驚いた。招待客は歓声を上げたかもしれない。しかし彼らは、そのぶどう酒が「どこから来たのか、知らなかった」(9)

 しかし水をくんだ手伝いの者たちは、そのぶどう酒がどこから来たのか知っていた。それはまぎれもなく、主イエスから来た。手伝いの者たちは、まさか、自分たちの労苦がこういう祝福になるとは思っていなかっただろう。こうして主イエスは、奇跡によって「ご自分の栄光を現された」。

 私たちは日常に追われる余り、神様に期待するのを忘れてしまうことがある。しかしこの箇所から、私たちも神様の祝福をいただいて、神様のすばらしさを喜びたいと思わされる。このストーリーは、“主イエスは私たちの労苦を祝福してくださって、神様の素晴らしさを見させてくださる”と教えてくれる。神様の祝福に期待して、与えられた労苦を忠実に担う者でありたい。教会で共に労苦することは、祝福を共に喜ぶことになると信じよう。

 

「水がめに水を満たしなさい。」7