ヨハネの福音書9章1〜12節

「神のわざがあらわれるため」

 

 主イエスの一行は、「道の途中」で物乞いをしている生まれつきの盲人に出会う。弟子たちは主イエスに尋ねる。「彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。」デリカシーのない問いであるが、恐らく世間でささやかれていた考えを口にしたのだろう。

 苦しみを背負う時、人は「どうして私ばかり」とその理由を問う。しかしどの人も、その答えを持ち合わせていない。なぜなら人に与えられた使命は、苦しみの理由を解き明かすことではなく、その苦しみに寄り添うことだからである。

 主イエスは答えられた。「その人が罪を犯したのでもなく、両親でもない」。つまりその人が悪いわけではない、その人のせいではないということである。そして、その上で「神のわざがこの人に現れるためです」と言われた。

 驚くべきことに、神様は苦しみに打ちひしがれている人のために、恵みのわざを備えておられると言われる。しかしその恵みのわざは、いつ・どういう形でその人に現れるのか、人には隠されている。とは言え、神様の御手の中に希望の光りは残されていると約束されている。

 主イエスは「わたしたちは」恵みのわざを行わなければならないと言われた(4)。「わたしたち」とは、弟子たちであり今日の教会である。私たちは、主イエスから愛をいただいて人々の苦しみに寄り添う。自分の無力さを感じつつ、神様の御手の中にある恵みのわざが現れることを祈りつつ、苦しみに添い続ける者でありたい。

 

「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」(3)